埼玉県鳩山町にゆかりのある有名人
小川知也(鳩山町長)
プロフィールと鳩山町との関係
小川知也(おがわ ともや、1996年〈平成8年〉生まれ)は、鳩山町出身の政治家で、2024年7月に鳩山町長に就任しました。幼少期から鳩山町で育ち、町立鳩山幼稚園に入園後、鳩山小学校、鳩山中学校へ進学。小中学校時代には地域行事に積極的に参加し、町の未来を考える機会を得ました。高校は県外の進学校に進み、在学中に地域問題への関心を深めました。早稲田大学スポーツ科学部に進学し、大学では地域スポーツ振興や青少年育成プログラムの研究に取り組みました。在学中、学業と並行してボランティア活動にも参加し、鳩山町と東京を往復して地域振興策を学びました。

鳩山町長選出馬までの経緯
大学卒業後は東京ディズニーリゾートの運営会社に就職し、エンターテインメントを通じた地域活性化の手法を学びました。その後、衆議院議員の秘書として国政に関わり、課題解決に向けた政策立案の経験を積みました。鳩山町では高齢化と過疎化が進む中、若者が定住しやすい環境づくりが急務とされており、帰郷して地元に直接貢献したいという思いを強めました。

主な功績
2024年7月の町長選挙では現職町長を破り、当時28歳で初当選。これにより鳩山町は全国で最年少町長を迎えることになりました。町政の最重要課題として、人口減少対策、子育て支援、移住定住促進を掲げており、就任後すぐに以下のような施策を打ち出しました。
- 若年世代向け住宅支援制度の創設:鳩山町内に新居を構える若者に向けて、家賃補助や初期費用の軽減を行う。
- 地域おこし協力隊の設置:都市部からの移住者を積極的に受け入れ、農業体験や伝統文化の伝承を通じて地域活性化を図る。
- ICTを活用した遠隔医療の導入:高齢者の通院負担を軽減するため、町内にリモート診療システムを整備し、医師とのオンライン診察を可能にする。
これらの取り組みは町民からも高い評価を受け、メディアでも若手リーダーの好事例として取り上げられています。町長就任後は町議会との連携を強化し、予算編成にも積極的に関与。住民参画型の意見交換会を定期開催し、行政と住民の距離を縮める努力を続けています。

吉田秀行(歌手、ボニージャックス)
プロフィールと鳩山町との関係
吉田秀行(よしだ ひでゆき、1965年〈昭和40年〉生まれ)は、鳩山町出身の歌手で、世界的に活躍する男性コーラスグループ「ボニージャックス」のメンバーです。幼少期から音楽に親しみ、地元の合唱団にも参加。中学時代は文化祭でアカペラに挑戦し、地域の人々を感動させました。その後、県立川越高等学校を卒業し、音楽大学へ進学。音楽理論や発声法を学びつつ、ジャズコーラスグループに所属して実践経験を積みました。
ボニージャックス加入までの歩み
大学卒業後はプロのシンガーとして国内外のステージに立ち、ソロ活動を行うかたわら、様々なコーラスグループのオーディションを受けました。2003年、ボニージャックスのセカンドテナーとして加入。同グループは結成当初から50年以上の歴史を持ち、日本の民謡やポピュラーソングからクラシック、世界各国の民謡まで幅広いレパートリーを誇る実力派コーラスグループです。メンバーの高い技術力とハーモニーは国内外から高く評価され、多数のアルバム制作や海外公演を重ねています。
主な功績
吉田氏加入後の代表的な公演に、NHKホールでの定期演奏会や海外ツアーがあり、ヨーロッパ各都市での公演では現地のオーケストラとも共演。特にドイツでのコンサートは大成功を収め、ドイツ音楽誌でも高い評価を受けました。ボニージャックスの代名詞ともいえる童謡「ちいさい秋みつけた」の歌唱によって、吉田氏の温かみのある声質と表現力が広く知られるようになりました。
また、地域に根ざす活動として毎年秋に鳩山町文化会館で開催される「鳩山町音楽祭」にゲスト出演し、地元の小中学生や高齢者施設を訪問して音楽ワークショップを行っています。地元の合唱団との合同ステージは毎回好評を博し、地域住民との交流を深める一助となっています。
小鷹卓也(元プロ野球選手)
プロフィールと鳩山町との関係
小鷹卓也(おだか たくや、1955年〈昭和30年〉生まれ)は、旧鳩山村(現在の鳩山町)出身の元プロ野球選手(投手)です。幼少期は農家の家庭で育ち、小学4年生の頃から地元少年野球チームに所属して野球を始めました。鳩山中学校ではエースとして活躍し、当時まだ野球部所属の中学校は少なかったにもかかわらず、強豪校にも臆せず投げ抜く姿勢で注目を集めました。
高校時代の栄光
飯能高校(旧飯能西高校)に進学後、2年生の春からエースに抜擢され、県大会で二度のノーヒットノーランを達成。1972年夏の甲子園大会埼玉県予選では準々決勝まで進出し、その投球技術は全国のスカウトから高く評価されました。最速で時速140キロを記録し、変化球のキレも抜群であったため、1973年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズ(当時はロッテオリオンズ)から2位指名を受けて入団しました。
プロ野球での歩みと引退後
プロ入り後は主に二軍で経験を積み、1978年に一軍初登板を果たしました。しかし、この一軍登板がキャリアを通じて唯一の公式戦出場となり、思うような結果を出せないまま1981年に現役を引退。その後は二軍投手コーチを経て、地元・鳩山町の少年野球指導者としても活動しました。
引退後は鳩山町内の中学校で野球部監督を務め、地元の野球少年たちの指導にあたりました。1970年代から80年代にかけてはプロ入り選手が少なかった時代であり、小鷹氏の存在は地元の野球少年にとって大きな励みとなりました。現在も毎年、鳩山町で開催される少年野球教室に講師として招かれ、投球フォームの指導や野球の楽しさを伝え続けています。
須江航(高校野球指導者)
プロフィールと鳩山町との関係
須江航(すえ わたる、1983年〈昭和58年〉生まれ)は、鳩山町出身の高校野球指導者で、現・仙台育英学園高等学校野球部監督です。鳩山町立鳩山中学校時代は内野手として活躍し、県大会に出場しましたが、同校が県強豪校と対戦して敗退した経験が転機となり、指導者への道を志しました。
高校は宮城県の強豪・仙台育英高校に進学し、全国大会出場を果たした経験を持ちます。大学は東北学院大学に進み、在学中に野球部のコーチ補佐を務め、指導力の手腕を磨きました。卒業後は仙台市内の高校教員として赴任し、野球部コーチとして働き始めましたが、鳩山町の恩師からの誘いを受け、高校野球指導の道に専念することを決意しました。
プロ野球指導者としての実績
2018年に母校・仙台育英高校野球部の監督に就任。就任初年度から選手育成に徹し、個々の能力を最大限に引き出す指導方針を徹底しました。トレーニングでは基礎体力とメンタル面の強化を重視し、チーム内の一体感を高めるために合宿や親睦試合を数多く組み込みました。
その結果、2022年の第104回全国高等学校野球選手権大会では下関国際高校を延長タイブレークの末に破り、東北勢として初めて夏の甲子園優勝を達成しました。決勝戦では延長15回引き分け再試合の激闘を制し、2度目の試行で勝利をつかみ取りました。優勝インタビューで須江監督は「青春って、すごく密なので」という言葉を残し、この言葉は高校球児やファンの間で大きな反響を呼び、新語・流行語大賞のノミネートに至りました。
翌2023年の第105回全国高等学校野球選手権大会でも準優勝を果たし、連続して全国大会の決勝に進出。甲子園通算成績は出場4回、優勝1回、準優勝1回で、選手の精神面と技術力を両立させる指導スタイルは高く評価されています。
指導者としての須江監督は、選手一人ひとりの個性や成長過程に合わせたトレーニングメニューを作成し、スカウトからも注目を集める若手選手の育成に成功しました。卒業生の多くは大学野球や独立リーグで活躍しており、近年ではプロ野球ドラフト会議で指名される選手も輩出しています。
鳩山家との関係(鳩山一郎・鳩山由紀夫)
背景とエピソード
鳩山町という地名は、戦国時代から続く歴史的背景を持ちますが、直接的に「鳩山」姓の政治家一族が由来したわけではありません。しかし、1955年(昭和30年)4月1日に旧山田村、旧木野崎村、旧宿鳩山村が合併して鳩山町が誕生した際、当時の内閣総理大臣であった鳩山一郎氏(よどみ なかお氏の姪婿)に揮毫を依頼し、一族の家訓である「友愛」の書を町に贈りました。
鳩山由紀夫氏の訪問
その額縁は現在も鳩山町役場の正面ロビーに掲げられており、来庁者を迎えています。その後、鳩山由紀夫氏(鳩山一郎氏の孫、後に第93代内閣総理大臣)も町との縁を大切にし、2009年7月に衆議院選挙の遊説中に鳩山町役場を訪問。町役場職員や住民と対話し、祖父が揮毫した「友愛」の書を対面で確認しました。この際、由紀夫氏は「祖父が大切にしていた言葉が、今も人々をつなぐ力になることを嬉しく思う」と語り、町民から大きな拍手を受けました。
鳩山家と鳩山町のエピソードは地域住民にとって誇りであり、毎年11月に町内で開催される「鳩山文化祭」では、町役場ロビー前にて「友愛」の書が特別展示され、訪れた市民が記念撮影を行うことでも知られています。