吉田秀行(ボニージャックス)大学卒業後のキャリアと現在の活動
吉田秀行(よしだ ひでゆき)は、日本の男性コーラスグループ「ボニージャックス」のメンバーとして活躍する歌手です。ボニージャックスは1958年に早稲田大学グリークラブ出身の4人で結成され、「早稲田の4人組」と呼ばれるほど人気を博した伝説的コーラスグループです。吉田秀行は1965年生まれのグループ最年少メンバーで、2003年に前任の大町正人の後任として加入しました。本記事では、吉田秀行の大学卒業後のキャリアを中心に、音楽活動や就職経験、作曲・編曲への取り組み、舞台での活躍、他メンバーとの関わり、そして現在の活動に至るまでを詳しく解説します。
大学卒業後の音楽活動のスタート
音楽大学で声楽を学んだ吉田秀行は、大学卒業後すぐにプロの歌手としての道を歩み始めました。1988年には音楽専門の出版社に就職し、編集者として働きながらも、夜はクラブやライブハウスでソロ歌手としてステージに立つなど精力的に活動します。また複数のコーラスグループのオーディションを受けて合唱スキルを磨き、音楽出版社の業務の傍らバックコーラスやレコーディングの仮歌(デモ歌唱)も請け負って現場経験を積み重ねていきました。このように会社員として働きながら音楽活動を続けた異色の経歴によって、実践的な歌唱力と音楽業界での人脈を広げていったのです。
やがて吉田の確かな実力が評価され始め、各種コンサートツアーや音楽イベントへの出演機会が増えていきました。ジャズからポップス、童謡に至るまで幅広いジャンルの曲を歌いこなし、その多彩な表現力をアピールしたことでプロのコーラスシンガーとして着実にキャリアを重ねます。2000年代初頭にはフリーランスの歌手として安定した活動基盤を築き上げ、大規模な「東京ジャズフェスティバル」や「横浜ストリートライブ」といったイベントにも出演するまでになりました。この頃には声楽講師として若手の指導にも携わり、自身の経験を活かして発声指導やステージマナー講座を開くなど後進の育成にも努めています。
ボニージャックス加入までの道のり
長年にわたり着実に実力を蓄えてきた吉田秀行に、転機が訪れたのは1999年のことでした。同年、あるラジオ番組の収録現場でボニージャックスと初めて共演し、この出会いが後のグループ加入へのきっかけとなります。ボニージャックスは童謡『ちいさい秋みつけた』や『帰れソレントへ』など数々の名曲で知られ、レパートリーは5000曲以上にも及ぶ日本を代表するコーラスグループです。当時のメンバーは、トップテナーの西脇久夫、セカンドテナーの大町正人(吉田の前任)、バリトンの鹿嶌武臣、バス(リーダー)の玉田元康の4人でした。
その後、大町正人が病気療養のためグループを離れることになり、大町の後任を探していたボニージャックスは豊富な合唱経験を持つ吉田秀行に白羽の矢を立てます。2003年、吉田秀行は38歳でボニージャックスに正式加入し、伝統あるグループの新メンバーとなりました。年齢差が約30歳もあるベテランメンバーに囲まれる形でしたが、その安定感のある声質とコーラス技術が高く評価され、玉田元康をはじめ他のメンバーともすぐに打ち解けたといいます。公式サイトでも「2003年より大町正人に代わり吉田秀行が加入」と紹介され、この新加入を機に**ファンからは親しみを込めて「ヨンさま」**という愛称で呼ばれるようになりました。韓流ブームで人気だった俳優ペ・ヨンジュンの愛称にちなみ、当時新たな“4人目”として迎えられた吉田に対するユーモアと親愛の表現でした。
吉田は加入前の2003年秋に行われたグループのリハーサルに数度参加し、同年末のコンサートツアー「歌声は世代を超えて」で正式にステージデビューを果たしました。新メンバーとして初期の頃から積極的にファンミーティングを開催し、古くからのファンにも顔と歌声を披露して歓迎を受けています。加入当初、創設メンバー3人+新人1人という構成の中で「ハーモニーのバランスを崩さず個性を出す」という課題があったものの、吉田は発声のポジションを細かく調整して既存のハーモニーに溶け込む努力を重ねました。その結果、加入から半年後の記念コンサートではセンターパートを任され、観客やマスコミから高い評価を得るまでになったと伝えられています。こうしたエピソードからも、吉田がグループにスムーズに適応し、早い段階で戦力として認められたことがわかります。
グループ加入後の活躍と他メンバーとの関わり
吉田秀行の加入により、長年活動してきたボニージャックスは新たな活力を得ました。コンサートやレコーディングでは従来の童謡・唱歌やフォークソングに加え、ジャズのスタンダードナンバーや新しい編曲曲にも挑戦し、グループの音楽性はさらに幅広いものとなっています。吉田加入後初となるアルバム『NEW HARMONY』(2005年リリース)は、往年のファンのみならず音楽評論家からも高い評価を受けました。リーダーの玉田元康は後年のインタビューで「大町がリタイアした後、吉田さんが加入してくれて今のボニー(ボニージャックス)がある」と語っており、吉田の存在がグループの生命力を維持する要となったことを明かしています。吉田の持ち前の柔軟な音域と安定したハーモニー感覚が、新旧のレパートリー融合やファン層の拡大に大きく貢献したのです。
一方で、吉田と他のオリジナルメンバーとの人間的な交流も興味深いエピソードが残されています。吉田は加入時、メンバー最年少かつ30歳近い年齢差もあって非常に謙虚で控えめな性格だったと言います。バリトン担当の鹿嶌武臣は周囲に「吉田の趣味は遠慮することです」と冗談交じりに紹介していたほどで、常に先輩たちへの気遣いを忘れない真面目な人柄だったことが伺えます。実力派揃いのボニージャックスにおいて、性格も声質も異なる4人が長年仲良く活動できた秘訣は、お互いの個性を尊重し合ってきたからこそであり、控えめながら芯の強い吉田の存在もその調和に一役買っていたのでしょう。
オリジナルメンバーたちとの関係では、吉田は大先輩たちの音楽観や人生観から多くを学びつつ、グループ内で徐々に自らの役割を深めていきました。例えば吉田は高校時代から編曲の経験があり、そのスキルを買われて新曲のコーラス譜面作成を任されたり、コンサートで過去の楽曲に新アレンジを提案することもありました。また地方合唱団とのジョイントコンサートでは、自ら指揮やボイストレーニングの指導役を務めるなど、指導力を発揮しています。セカンドテナーとして常に中間パートを支える内声を担当しつつも、持ち前の広い声域で場合によってはトップテナーの高音域までカバーできる柔軟さを見せ、グループのハーモニーに厚みを加えました。実際、吉田は必要に応じてハイトーンのソロパートも任されており、高音から低音まで自在に歌いこなすその実力はメンバーからも信頼を集めています。
年月と共に、ボニージャックスの創設メンバーたちは高齢となりステージから去っていきました。セカンドテナー前任の大町正人はグループ離脱後の2011年に逝去、トップテナーの西脇久夫は2021年8月に85歳で亡くなり、バリトンの鹿嶌武臣も2024年9月に90歳でこの世を去りました。長年苦楽を共にした先輩たちを送り出す立場となった玉田元康(バス担当)と吉田秀行でしたが、その度に解散も検討されながら、ボニージャックスの名を絶やさず歌い続ける道を選択しています。特に西脇が亡くなった際には、所属事務所の社長でもあった西脇不在で経営が立ち行かなくなる懸念もありましたが、日本国際童謡館の大庭照子館長らの強い励ましと支援を受け、活動継続の決意を固めたといいます。吉田自身もそんな先輩たちの意志を受け継ぎ、「世代を超えた歌の架け橋」としてグループを守り発展させていく責任を担うようになりました。
地域貢献と現在の活動
吉田秀行が加入した2000年代以降、ボニージャックスは音楽活動と並行して社会貢献や地域交流にも一層力を入れるようになりました。特に童謡や唱歌の普及活動には熱心で、磯部俶(作曲家)による童謡「遥かな友に」を通じて日本国際童謡館との定期的な交流が生まれ、大庭照子館長や高田真理理事長(前述の励ましをくれた方々)との共演機会も増加しています。吉田はグループ最年少として新しい発想を取り入れつつ、こうした活動にも積極的に参加し、伝統的な童謡の魅力を次世代に伝える架け橋となっています。また、出身地である埼玉県鳩山町の音楽祭には毎年ゲスト歌手として招かれ、故郷との絆を大切にし続けています。地域の少年少女合唱団に歌唱指導を行ったり、町の文化講座でワークショップを開催して音楽理論や発声法を教えるなど、地元の音楽文化の育成にも貢献しており、その功績に対して地元教育委員会から感謝状が贈られたこともあります。
2024年に鹿嶌武臣が逝去した後、ボニージャックスは創設メンバーが玉田元康ただ一人となり、グループは玉田(当時90歳)と吉田(同59歳)の2人体制となりました。長年4人で活動してきたグループがデュオ編成になるという大きな変化にもかかわらず、玉田は「正直、新鮮で楽しい」と語り、吉田もこれまで以上に伸び伸びとステージでトークをするようになったといいます。年長のメンバー達(玉田・鹿嶌・西脇)に囲まれていた頃は控えめだった吉田ですが、「うるさ方」(口うるさい先輩)が旅立ったことで殻が破れ、舞台上で自ら積極的にMCを務める姿も見られるようになりました。歌唱面では、テノールの吉田とバスの玉田という両極の声域同士のコンビネーションによりハーモニーのコントラストが際立ち、新生ボニージャックスならではのサウンドを模索しています。
興味深いことに、2024年秋に鹿児島で行われたジョイントコンサートで初めて玉田・吉田の2人だけでハーモニーを奏でた際、周囲からは「確かに4人で歌っているはずのボニージャックス特有のハーモニーが聞こえた」と評されました。長年にわたり培われた歌声の調和が、たとえメンバーが減っても倍音の響きとして残っていたのではないか——そのように分析する声もあります。玉田と吉田は「これまで4人で作り上げてきたボニージャックスの音色(通称“ボニートーン”)を大切にしつつ、2人で新しいハーモニーを作っていかなければ」と意欲を語っており、少人数になってもなおグループの伝統を守り続ける決意が感じられます。
現在、ボニージャックスは結成から65年以上(2025年時点)を経ても活動を継続しており、玉田元康と吉田秀行のコンビで全国各地のコンサートやイベントに出演しています。玉田は90歳にして2025年3月に初のソロアルバムをリリースするなど話題を集め、吉田も唯一の現役中堅メンバーとしてその活動を支えています。吉田自身、地元での活動や学校公演、オンラインでの音楽配信などを通じて「合唱の楽しさを若い世代に伝えていきたい」と語っており、その視線は未来にも向けられています。培ってきた技術と情熱を次代へ継承しつつ、自身も歌い手として進化を続ける——吉田秀行のキャリアは大学卒業後から現在に至るまで、常に挑戦と成長に彩られていると言えるでしょう。グループの一員として、そして一人の音楽家として、これからも紡ぎ出されるハーモニーに期待が寄せられています。
主な経歴(年表)
- 1965年(昭和40年) 埼玉県鳩山町に生まれる(出生)。
- 1988年(昭和63年) 音楽大学卒業後、音楽専門出版社に就職し編集者として勤務。並行してクラブ歌手・バックコーラスなどプロの歌手活動を開始。
- 1999年(平成11年) ラジオ番組の収録でボニージャックスと初共演。
- 2003年(平成15年) ボニージャックスにセカンドテナーとして正式加入(前任の大町正人の後任)。
- 2005年(平成17年) ボニージャックス加入後初のアルバム『NEW HARMONY』をリリース。
- 2011年(平成23年) 前メンバーの大町正人が逝去(享年73)。
- 2021年(令和3年) トップテナーの西脇久夫が逝去(享年85)。
- 2024年(令和6年) バリトンの鹿嶌武臣が逝去(享年90)。以降、玉田元康と吉田秀行の2名体制で活動継続。
- 2025年(令和7年) 玉田元康(90歳)がソロアルバムを発表しソロ歌手デビュー。吉田秀行はボニージャックス唯一の中堅メンバーとしてグループの伝統を守りつつ全国で精力的に公演中。