小鷹卓也――飯能高校時代の栄光
1955年生まれの小鷹卓也は、埼玉県立飯能高等学校に進学すると、入学直後から野球部のエースとして注目を集めた。左投左打ちの本格派左腕として、打者からは大きく曲がる縦スライダーと、重い直球を武器にしていた。グラウンドでは常に冷静で、簡潔な投球フォームから繰り出す速球は角度がつき、キャッチャーミットにずっしりと響くような迫力があった。春先の練習試合でも初登板から完投勝利を飾り、チームメートや指導者の期待が一気に高まった。
1972年秋季関東大会県予選での快進撃
高校3年時の1972年秋季関東大会県予選では、飯能高校は準々決勝から小鷹を先発に据えた。準々決勝では強豪・所沢高と対戦し、初回に先制点を許しながらも、徐々にリズムをつかんで以降は相手打線を寄せつけず、8回を投げて被安打2、奪三振9、無失点に抑える快投を披露。コールド勝ちとなった準々決勝を経て迎えた準決勝では、延長10回にもつれ込む死闘を1-0で制し、決勝進出を果たした。しかし決勝の大宮高校戦では、立ち上がりに制球を乱して5点を失い、試合は惜しくも3-5で敗退。敗れはしたものの、小鷹の投球内容は高く評価され、翌春の選手権県大会での注目株となった。
1973年春季大会での激闘と延長13回の熱戦
1973年春季大会準々決勝では、強打の川越工業を相手に、序盤から安定した制球を見せて6回まで無失点に抑えた。打線の援護もあって3-1で勝ち進んだ準決勝では、熊谷商業の左腕エース・鎗田英男とマウンドを争った。両エースの投げ合いは延長13回に及び、スタンドには観客の息遣いまで伝わる緊張感が漂った。小鷹は13回裏に疲労からわずかに制球を乱して決勝点を奪われ、0-1で惜敗したが、この試合は埼玉県内屈指の名勝負として野球部OBや地元メディアに長く語り継がれた。
1973年夏の甲子園県大会での戦い
同年夏の全国高校野球選手権大会県予選では、飯能高校が勝ち進むたびに小鷹が先発し、準々決勝まで連続完投を達成した。特に4回戦の蕨高校戦では、6-0の完封勝利を飾り、公式記録として県大会初のノーヒットノーランを達成。続く準々決勝では延長14回までもつれる激戦となり、1-0のサヨナラ勝ちを収めた際には、21人もの三振を奪う驚異的な奪三振ショーを見せた。しかし準決勝の川越工業戦では再びあと一歩届かず、1-2で惜敗。甲子園本大会出場こそ叶わなかったが、小鷹の県大会における圧倒的な投球は、記録と証言として県高校野球史に刻まれた。
高校野球史に残る記録とその後の評価
小鷹卓也の高校時代の主な記録として、県大会ノーヒットノーラン2度、1試合最速21奪三振(延長14回)、延長13回完投負けなどが挙げられる。特に1972年7月24日の所沢商業戦での21奪三振は、「埼玉県高校野球1試合最多奪三振記録」として公式に認定されている。これらの実績は、飯能高校野球部の伝統として受け継がれ、後輩投手たちの目標となった。また、地元新聞やファンサイトでは「飯能の左腕」として紹介され、その後のプロ入りを強く後押しした。
チームと地域への貢献
飯能高校野球部の一員として、小鷹はエースとしてだけでなくチーム全体を引っ張った。練習試合や公式戦の度に、地元の保護者やOB会が応援に駆け付け、県営大宮公園球場での試合では数千人規模の観客が集まった。夏場の猛暑の中でも、部員たちは早朝練習や坂道ダッシュを繰り返し、小鷹自身も投球後にバッティング練習に励む姿が後輩の励みとなった。練習後の地域清掃ボランティアにも積極的に参加し、学校と地域の絆を深める存在となった。
飯能高校野球の伝統と影響
小鷹卓也の栄光は、飯能高校野球部に新たな伝統を築いた。彼が記録したノーヒットノーランや延長戦での奮闘は、OB会の定例会や周年記念大会で語り草となり、後輩たちは入学直後から彼の投球映像や新聞記事を教材に練習に励んだ。地域の少年野球クラブでも「小鷹カップ」と銘打った大会が開催され、優勝トロフィーには彼の名が刻まれている。飯能高校野球部は以降、県大会常連校としての地位を確立し、校内の風紀と文化にも大きな影響を与え続けている。
プロ入りと飯能高校時代の意義
1973年のプロ野球ドラフト会議では、千葉ロッテオリオンズから2位指名を受けてプロの世界へと進んだ。飯能高校で培った精神力と技術はプロスカウトにも高く評価され、当時のスポーツ紙には「即戦力左腕」として大きく報じられた。プロでの活躍は一軍登板が1978年の1試合にとどまったものの、高校時代の成功体験と記録は本人にとってかけがえのない誇りであり、地域の野球ファンにとっても永遠の輝きとなっている。
参考資料: 飯能高校での活動・成績は『小鷹卓也』Wikipedia記事や埼玉県高校野球記録集、ファンサイトの記述などをもとにまとめた。